昭和五十四年十月十八日 朝の御理解
御理解第二十五節
「信心は日々の改りが第一じゃ、毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い夜が明けたら元日と思って、日々嬉しゅう暮らせば家内に不和はない。」
本当に私はそう思わにゃいけん、と思うですね。
本当に日々が元日の様な心で暮らしたいなあ、とまず意欲しなければいけません。
そりゃあほんにそうじゃばってん、じゃいかん。
毎日毎日が、もう眼がさめたらそれこそ「明けましておめでとうございます」。と言える様な心、そういう心にならせて頂こうと、今日も、いよいよ元日の様な心で過ごさせて頂こうという願いをもたなきゃいけません。
それにはやはり前の晩が大事ね。いよいよね、一日をしめくくった時に「今日も広大なおかげを頂いてありがとうごさいます。只今から寝ませてもらいます。明日また、よい有難い目覚しが出来ますように」。というような祈りがいると思います。
だから本気で、「日々を元日のような心で過ごさせて頂きたい」。
という、願いを先ず立てなければいけませんね。
いよいよめでたい心ね。どんな場合であっても、いうなら馬鹿と阿呆で、と云うか豊かな心ね。
あの男は、ちったあめでたい、と云いますね。ちっと、その、ま、
ありゃ馬鹿ぢゃなかやか、と云う時に云いますけども、それなんです、信心はね。日々が、めでたい男、女ご、で過ごさせてもらえるおかげを頂かにゃでけません。
あんまり、チンち云や、カンと云うごたるふうでは、もう一時が万事にね。よか時はよかけれども、悪か時も、やっぱりちょっとした事が、チンち云や、カンと云った様な事になりますからね。云うならそういう心が、ありがたい、めでたい、元日の様な心から遠ざかって行く事になります。昨日は合楽会でしたから、皆さんいろいろ御大祭を拝ませて頂いての、ま、こぼれ話し的な話を、いろいろ聞かせてもらいました。
本当に、あのう、様々ですね。
沢山なお参りがあっておりましたから、その中には、ほう、ちょいと大したこっちゃあるち、言うごたるふうだけで終わっとる人もありますよ。どこから、あげなお供えが集まって来るやろか、ち、言うてから、ま、たまがり返ってから、その事だけを、あの、ほう、
ち、言うておった、と、言う人もあるね。
本当に年々歳々、御大祭たんびに充実したお祭りが頂けて、もう
動でいっぱいでしたと言う人もありましたね。
私共がね、やはり大祭を自分の御大祭と言う様に、自分のお教会の御大祭は、そのまま自分の御大祭と言う事と同じ事です。
昨日は、午前中奉仕させて頂いている間に「昨日は御大際に、とうとう御無礼してからお参りが出来ませんでした」。と言って参る、
お参りの方が多かった。
「あら あなた参っとらんじゃったの」と当然参らなければならない、ま 例えば、義理にでも参らにゃすまん、と言う人たちがね、お参りが出来てない人があります。
話を聞いてみると成程、お参りしよう。と思いよったけれども、ほんにもう用意までしとったけれども、こういう風な突発的な事が起ってと、いった様な事で お参りが出来てないが、これはもうね。
それこそ観念です。もう、「御大際参拝の時には、絶対お参りをする」。という観念を持たにゃいかんです。
「お金が出来ちから 暇があったらお参りする」。
お通知を受けてから初めて、「大祭が十六日たい、お参りしようか」と、いった様な程度じゃいかん。
兎に角、例えば秋の教祖大祭と言えば、年に一回、その教祖大祭にね、お参りをする、という事は、もう当然。
それこそ一家眷族、みんなで、うち揃ってお参りする。皆、そういう所は、おかげ受けてるんです。素晴らしいね。
昨日、私は思ったのに本当に合楽の場所は、一つの余裕とでも申しましょうか、「まあだ、こういう人達が沢山、いよいよ参る気になれば、此処に入りきらん事になるな」。と思った事でした。
だから そういう人達の信心が、だんだん育って、例えば御大際は、絶対なものとしての、いわゆる観念です。
これだけは絶対お参りが出けん事は無かですねえ。どげん時でも、
お参り出けん様な事があっても、それを、それこそ蹴る様にして、お参りをしてくる勢いの向こうには、「必ず力が受けられる、おかげが受けられる」。という体験がね、素晴らしいんです。
だから神様に、喜んで頂く様な事であれば、どんな事でも、この勢いで行けば、おかげが受けられる、と云ったような確信も又ついて来る訳ですね。
第一、大祭にお参り出来なくなった、と云う事情が起こってくる時には、自分の信心が間違がっておる時と思って、深く反省しなければならない時と思うんですね。
日々の改まりが第一。毎日大祭と云う事ではないですけれどもね。
自分の心の改まり。と云う所をそう云う時に、私、本気で気づかせて頂かなければいけないと思う。
「本当に今度の大祭ほど充実した、もう何からなにまで充実した、素晴らしいお祭りはなかったなあ」。と、昨日この大祭当日の事を思うておりましたら、総代さんの高橋さんが、実はこういう事がありましたと。ある先生が、えらい腹の立ってこたえんち云うごたる風で、こげんぢゃった。
昨日、秋永先生が云われるには「昨日は信徒会の研修でしたから、
晩に出て参りましたら、こんな事ぢゃった。もう本当に昨日ばかりは、それこそ一切何もかもが、有難い有難いの充実したお祭りと思いよったら、まあだ、そういう所があったばいなと。こっちもいよいよ、もちっと信心を本気で目のつまった水をもらさんごたる信心にならにゃいけないなと」。
どういう事を云われたかと云うと、「第一に、あの祝詞がいかんぢゃった、ち、祝詞がいかぢゃった」と、云う訳なんですね。
合楽、合楽ば言う過ぎるちね。昨日は、上野先生からも、えらい怒られた。それがもう腹が立ってこたえんち、やっぱ怒られとる。何もまちがってもおらんかったろうが、そりゃまあ、いくら怒られたっちゃ改まっていかにゃん。ほんなこて教えて頂くとじゃけんのち、云うた事でしたけれども。
昨日、その話をいろいろ聞かしてもらい、夕べも合楽会でそういう話が出ましたから、それもその、「誰も彼もぢゃない、たった一人の先生がそうぢゃった」。
そりゃ私が申しました。あんまりすばらしい御大祭ぢゃったけんにちがわん、腹の立ったちゃろ、と申しました。
人間の心の中には、そういうものがあるとですよ。
となりがどんどん儲け出すと、こっちは、歯がゆい、にくじでんしゅうごつなってくる、と云う様な人間の心があります。
その事を、「あっ ほんに、そげんもあろうなあ。ただ人間としてみたら、そげん腹の立つ事もあろう、もうそれほどこっちが、おかげ受けておった事ぢゃから、神様に申し上げなきゃいけん」。と思っておりましたら、頂きます事がね。
例えば人の幸福が、ありがたくない。といった様な時、ケチでもつけたい、悪口を言おうごたる時には、自分の信心が、言うなら、その先生であるならば、その教会が、もう、いよいよ後ひざり衰微に衰微を重ねている時です。
これだから恐ろしい事です。
それが自分の心に起こった時にはね、はあ、これは自分の家の家運が傾きよる時と思って、こんな事ぢゃいかんと日次の信心に物云わせて、それこそ元日の様な心にならせて頂く事の改まりがいると思うですね。
だから、それと反対な時にはですね、本当に一緒に自分も喜んであげれるような時には、もう必ず、おかげを受けておる時です。 また、そういうね、腹の立つような問題があっても人に当たり散らかすのぢゃなくて、自分の心にね、それをむしろ御礼を申し上げれる所まで高めていくような姿勢の時には、必ずおかげを受け取る時です。
腹の立ちっぱなしで、人に不愉快な思いをさせたという様な時には、自分の信心も、自分の家もね、衰微方へ傾いている時、おかげ受けない方へ傾いている時と思って、私は自分の信心をいわば改めて行かねばいけないと思います。
大祭後の、こぼれ話しですが、ま、聞かせて頂いてね、思わせて頂いた事ですけども。
今度のお祭りこそ充実した、本当に喜びいっぱいで終わったかと思うたら、その怒られた人達もあった。と云う事で、勿論合楽の方達ですから、怒られた事で腹が立った、と云う事はないね。
それを、やっぱ、めいめいの信心で受けて、また流しておられる様子を聞かせて頂いたんですけれどもね。
お互いが、今日も一日、本気で元日の様な心で過ごしたい、という願いを立てなきゃいけません。
思わず知らず「おめでとうございます」、が口から出る様な心の状態を頂かなきゃいけない。そう願わにゃいけませんね。
人間ですから、様々な突発的な事が起こってまいりますね。
それで、もうカァ-ッとしても、「あっ今日は元日ぢゃけん腹立てちゃいかん」。とこう思います様にね。
すぐそれをうち消せるような状態を頂いておきたいね。そして自分の心に収まらない様な時には、それを相手じゃなくて、自分の心へ持ってきて日々の改まり、とおっしゃる、云うならば自分の改まりと云う所に焦点をおいてね。
自分の改まりに精進させて頂かなきゃいけません。
本気で願う事、今日も元日の様な心で過ごさせてください。
一日を締めくくったなら、あれもかたずいとった、これもすんどった。本当に今日一日ああ、忙しい事であった。途中で問題もあったけれども、考えてみるとやっぱ、おかげであった。もう御礼を申し上げる事以外になかった、と心から厚い御礼を捧げさして頂いて、
寝ませて頂く。
あくる朝の目覚しは必ず、おかげになる、それこそ元日の様な心で目が覚める。
そういう心で今日もまた、すべての事に取り組ませて頂く。という様な祈りを持たなきゃならんと思うですね。 「どうぞ」